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  • 山崎 美穂

決断力について。

決断力と、治療にどんな関係があるの?と聞かれそうですので、まず最初に。


治療とは、決断の連続です、とお応えします。


【目次】

1.決断できない人の話し方には特長がある

2.決断とは卒業である。

・決断とは決めて、断つこと。

・決断とは、葛藤を乗り越える力。

・決断は、決定と喪失の間にある。

3.決断力を磨くには文章を書かなくてはいけない



1.決断できない人の話し方には特長がある


決断力のない人と話す機会が久しぶりにあって、それでこのネタを思いついたんですが、あなたの周りの決断力のない人の話し方も、似てるんじゃないでしょうか?


決断力のない人の話は、かえるのションベン、だらだら続く、という特長がありませんか?


句点「、」はあるけど、読点「。」がない。




あるとき、その決断力のない人に「一回文章に書いてまとめて」と言ったことがあるんですが、決断力のない人って、絶対文章を書かないんです。


ただ箇条書きで書き出して、それで、文章を書いたって勘違いしているんですね。


文章を書くのと、箇条書きで羅列するのは、同じじゃありません。




箇条書きで羅列した後、整理するのが、文章を書くということなので、箇条書きをして、文章を書きました!という顔をされるのは、大間違いです。


箇条書きは、洗濯機で脱水の手前でわざわざ止めるようなものです。


一番大事な、文章をまとめ上げる、思考するという作業をしていないのです。


(箇条書きを終わった段階で、見落としがないか?という相談なら受けますが、代わりに結論を出してくれなんて言われてもまっぴらごめんです)




「。」がない話し方をする人。


文章を書かない(箇条書きはする)人。


あと、言葉の最後を「…?」と疑問形、質問で終えるという特長があるのですが、これは次の2.決断とは卒業である、で詳しく話します。




2.決断とは卒業である。


言い古されたことですが、決断とは、「決めて、断つ」と書きます。


自分で決めて、決めたことに対して痛みも含めた結果を背負う覚悟が決断です。




ところが、決断にも、ソフトな方と、ハードな方がありますよね。


決めることには、なんでも多少のストレスがあります。


今日のランチ、肉にするか、麺にするか…悩みます。一つを選ぶともう一つは選べない…ということは、決定も決断の一種です。ソフトな決断です。


ところが、ソフトどころか、自分では決められない、あらかじめ定められていることもあります。


決めるという意識もないまま、思い込みや社会通念が決めていることです。自分で決めているつもりであっても、本当に自分の意志かどうか疑わしい場合すらあります。


自我形成があいまいであれば、他人が決めることに違和感を感じないかもしれませんが、自我が明確であればあるほど、他人が自分についての決定権を持っていることには耐えられなません。


自我が強い人は、人生の早い段階で、決断することを学びます。


決断とは、葛藤を乗り越える力です。他人の期待や、社会通念にNOという意思です。


自分の中の葛藤。自分と他人の葛藤。自分と社会通念の葛藤。その葛藤に耐え、押し切ることから生じます。


「君はこっちを選ぶこともできる。でもその場合、こういう不利なことがあるよ」と、忠告という体裁で、葛藤を迂回する力も働きます。他ならぬ自分自身がその怪しい忠告者かもしれません。


葛藤を自覚できないことに対して、「決断」は働きません。

迂回することは、乗り越えることの一種のように見えますが、やっぱり迂回は迂回。葛藤を避けているし、避けた分決断は弱まります。


・決断とは、決めて断つこと。

・決断とは葛藤を乗り越える力。




決断は決定と喪失の間にある。


決断と迂回と葛藤は分かってもらえたと思いますが、突然出てきた喪失という言葉に驚かれたかもしれませんね。


喪失とは、決めない。決めないまま失うこと。


ここからは、ちょっと哲学っぽい話なのですが、まぁ聞いてください。




小学校の卒業って、本人が何一つ決めてなくても、トコロテン方式で押し出されます。死ぬと決めなくても、私たちはいつか死にます。死もトコロテン方式です。


喪失には、本人の意思としての決断はありません。最後は、大金持ちだろうが、独裁者であろうが、本人の意思とは違う力によって、すべてを奪われます。


私たちの一生は、最後すべて奪われ、喪失することが決められた、負け戦だと考えることもできます。そして決断とは、その負け戦の中で、いかに自分の爪痕を残すか、ということなのかもしれません。


人生って、自分らしさや、自分なりの美しさを、決断というものを通して表現すること。その人らしく、その人の人生を生ききる、ためにあるといえるかもしれません。


ちょっと話のスケールが大きくなりすぎですが、自分が自分であるってこととは、崇高なことだと感じてもらえれば十分です。




私は、その人が自分よりずっと目上の人であっても、一度も人生で決断ということをしてこなかったとしたら、その人は子どもだと思います。逆に、年齢的には子どもであっても、なにか決断した人を尊敬します。


決定…自分に害のないことを決めるのは、簡単です。子どもでもできます。無責任にできます。


決断…必ず、なんらかのことを断念する痛みと、痛みの自覚が伴います。


傷つく覚悟のある人間と、傷つく覚悟のない人間を、大人、子どもと言わずして、どうして大人、子どもと区別するんでしょう。




親から卒業できてない人は、なにか辛いことがあったら、親のせいにします。


先生から卒業できてない人は、なにか嫌なことがあったら、学校時代のトラウマのせいにします。


でも、親は子どもより先に死んでいなくなりますし、嫌だったその学校は、とっくに卒業していたりします。


元の校舎が残っていたって、同じ4年3組の教室に入ったところで、そこにはあのときの先生はいないし、あのクラスメートもいない。けれど、心の中ではいつまでも思い出が残り、マイナスの感情を上書き、上書きします。永遠は、記憶の中の世界にだけ、存在するのです。




決断力がないということは、過去、人生に起こった出来事にも、ピリオドが打てません。


そして、あの時、ああすればよかった、こうした方がマシだった…と、いつまでも繰り返し後悔し、過去を繰り返すのです。


そして、決断力のなさを強化する堂々巡りが始まります。


自分の決断を後悔する⇒決断することそのものを恐れる⇒次の決断を避ける⇒喪失⇒小さなことについても決定が怖くなる⇒…




そうやって、過去のマイナスの記憶に依存するケースもありますが、逆に過去のプラスからの卒業を嫌がる人もいます。


元の恋人との情熱的な関係であったり、居心地の良い過去の人間関係であったり。


あの人は本当に素敵な人だった⇒今度の人はあの人とこういうところが違う⇒やっぱりあの人とは違いすぎる⇒やっぱりあの人でないと⇒…




プラスの過去であり、マイナスの過去であり、いずれも卒業できない理由は、執着と依存です。


ある一つのものに、過剰にコミットしすぎてしまうと、そこから離れた自分自身がなくなってしまうと感じるのです。


「あの人のいない私の人生なんて、空っぽだわ」

「全部、全部、あいつのせいだ…!あいつさえいなかったら」


時間はずっと進み続けているのに、記憶だけは同じところにとどまることができてしまうからです。


永遠に繰り返すのは思い出だけで、自分自身さえ、身体も、心も、過去と同じではないというのに。




決断力とは卒業力でもあるし、自立力でもあります。


決断力がないということは、執着の対象にしがみついていることです。


それを許してくれる相手がいればいいですが、そのうちいなくなります。


決断を先延ばしした先にある喪失。


決断しようが、すまいが、いつか必ず来る喪失。


それを見定めて、自分でピリオドを打ち、卒業すると決めることが決断です。





3.決断力を磨くには文章を書かなくてはいけない


AとBのどちらを選ぶかというのが、決断だと誤解している人が多いですが、


本当は、Aか、Aじゃないか。Bか、Bじゃないか。Cか…と、とりうる選択肢それぞれについて、乗るか、そるかを選ぶ無数の決断があります。


そして、そのどれを選んでも、また選ばなくても、必ず喪失がやってくるのです。だから、私たちは決断しなくてはならないのです。


全部を選ぶというのは、全部を得て、その全部を喪失する、という決定に他なりません。


自分にどんな選択肢があるか、羅列していく作業…が、だから決断の前の段階、一番最初にあります。




文章を書くには、まず箇条書きで情報を出し切ることが必要です。


そしてその後、必ず、「まとめあげる」ということをしなくてはならず、それこそが決断するということです。


(1)箇条書きで出し切る

(2)文章としてまとめあげる


この2段階は絶対にセットです。このセットを素早くこなす人が、いわゆる仕事ができる人です。




決断力がない人は、どっちもやりません。


話し方が「…で、だから…、なのだけどでも…」


句読点だらけで「。」がない。


よくよく聞けば、「でも」「だって」の連続です。


選択肢を羅列してるだけですし、その選択肢も抜け漏ればかりです。これでまともに仕事なんかできるわけがない。




よく、先生みたいな人が、「でもとか、だってとか言うな!」って言いますが、話を切らないために多用するのが「でも」「だって」。


言葉はその人を作ります。


人間の身体を作るのは食べ物と運動ですが、心を作るのはその人の言葉です。発する言葉とは、自分で自分をプログラミングしてるのと同じこと。


教師は、言い訳の多い、依存型の、人間を育てたいとは思っていないので、「でも」「だって」を禁止するのは当たり前。




あなたがもし、決断力を磨きたいと思うなら、自分がどういう言葉を発しているかに注目してください。


一番良いのは文章で書くこと。


でも、大抵の人は、ここまで読んだ段階で、決断力なんか欲しくない!


と、「自由からの逃走」


とんずらです。


その方が楽チンだから。


ただし、それは依存させてくれる相手がいるうちだけ。その相手に逃げられる可能性もあります。


というか、私なら逃げます。


逆に、あなたがそうやって依存したがりの決断しない人と一緒にいるとしたら、早めに逃げた方が、あなたのケガが浅くて済みます。


その相手は、決断力がないからといって、攻撃力がないわけはないので。





最後に。


医療の現場で、決断を誰がするかというと、患者さんご自身がするのです。


患者の自己決定権というものがそれです。


自分のこと。とりわけ、自分にとって重要な生命・財産のことについて、自己決定権を本人が持っていることは重要なことです。




人にとって、重大な決断であればあるほど、優柔不断になります。


それは人情というものです。


つまり、決定というのは、本人にとって、とてもしんどい


『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム 著


人類は権利闘争を通じて、ようやく手に入れた自由を、その自由の重さゆえに、自ら手放そうとする…ということが、この本のテーマです。




医療における決断には、先延ばしにできることと、できないことがありますし、先延ばししても意味がないこともあります。先延ばしが、患者にとって危険なことも多いです。




医療にかかわるものの仕事として、


患者さんにできるだけ良い決定ができるよう、情報提供すること。


患者さんが、どんな決定をされても、その「決定の範囲内で」できるだけのことをすること。


それが私たちの務めです。


だから、なるべく患者さんには良い決定をして欲しいです。




鍼灸師は、命や財産に関する重大な決断の場に居合わせることは、まずありません。


けれど、小さな決断の連続が、大きな決断に繋がります。


なぜなら、人は文脈で生きていて、昨日の決断が、今日の決断を左右することがあるからです。


小さな日常の決断を、おろそかにしないでください。




オマケ。


文章を書く際は、「でも」「だって」だけでなく、接続詞を極力減らして書くようにしてみてください。


あと、短い文章で切ること。


「です」「ます」で終わる。

「~だと思いました」などの、「思う」もなるべく避ける。

短い言葉は強い言葉です。


あなたの人生を、あなたの決断で、デザインしてください。


できるだけ、良い決断ができることを、お祈りいたします。


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