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  • 山崎 美穂

聖職者とは何だろうと考えてみた

鍼灸師になって以来、人に聞かれる「なんで鍼灸師になったの?」問題に、なかなか決着がつかないものだから、仕事というものについて何かあるたびに考えてしまう。




聖職者って何だろう?


先日学校の先生とこういう話をした。


その方は生徒の進路指導をしているのだそうで、進路へ提出する書類を生徒の人数分(志望先は一つではないだろうから、生徒一人当たりもっとたくさん)添削しまくって、肩が凝ったという。


ライザップは、ダイエットに限らず、色々な分野で「結果にコミット」している。たとえば英語とか。


学校の先生も、生徒の「結果にコミット」する仕事だと言えるので、進路指導の仕事、生徒一人頭につき、ライザップと同じ料金をもらえるとしたら、年収何倍になるんでしょうね!という話をした。




単に形通りやる仕事も一部にはあるが、教師の仕事というのは、ほとんど結果にコミットすることばかりと言っていい。


そして、そういう結果にコミットする仕事というのは、いわゆる「手離れが悪い」仕事になる。


「ここからここまで」という線引きがしにくい仕事なのだ。


そういう仕事は大変だ。時間が来たからさあ終わりです!と手を放すわけにはいかない。


会社でも、手離れの悪い仕事は正社員の仕事として残り、手離れの良い仕事は、外注することが増えているが、学校の仕事で外注できるのは、純粋な事務作業だけだ。


いや、むしろ授業だけなら、外注できないこともないのかもしれない。「授業をするだけでいいなら、教師なんか余裕だよ!」と「そうそう。授業をするだけで終わらず、進路指導や生活指導、部活の世話なんかがあるから大変なんだよ!」という声が聞こえてきそうだ。




この世に仕事は無数にあるが、責任の重い仕事と言われる職業は、たいてい手離れが悪い。ここからここまでと線引きしにくい。その場にあたった担当者が、上司の判断を仰ぐ前に自分で判断して、臨機応変に動かなくてはならないことも多い。つまり、判断という責任が伴う。


責任の重さと、手離れの良し悪しで、マトリックスを作ってみよう。



教師のような、いわゆる聖職者と呼ばれる仕事は、責任が重くて、手離れが悪い仕事をしている人ではないか?


責任が重いだけでも大変なのに、しがらみばかり多くて、手離れも悪いとなると最悪だ。


少々の給料じゃ割に合わないし、そんな仕事、なり手も少ないだろう。




世間で聖職者と呼ばれる仕事に、どんなものがあるだろう?


お坊さんとか神職、教師、医者・看護師、保母さん、幼稚園の先生か。


本気で打ち込むなら、人の人生、人の生き死にに関わる、責任の重い仕事ばかりだ。しかし、責任が重いというだけなら、他にも責任が重い仕事はある。消防士さんなんか典型だ。命がけなのだから。しかし、あまり聖職者という呼び方はしない。なぜか?




本来の意味での聖職者…お坊さんや神職は、江戸時代以来、「葬儀」を取り仕切る単なる職業であり、手離れが良い仕事になっているから、先ほどのマトリックスの「責任が重い上、手離れも悪い」という定義から外れる。


今時、だれも言葉の本当の意味で、お坊さんを聖職者だと思っている人はいないと思う。


消防士さんは、火事を消すところまでが仕事で、大変ではあるが、いわゆる手離れが悪い仕事ではない。権限も、責任範囲も明確だ。終わりもはっきりしている。火が消えた時点。


人が「聖職者」と口にするとき、「責任が重く手離れが悪い仕事であり、絶対的に報酬が割に合わない」場合だけなのではないか?




私は、敬意と、報酬が、トレードオフの関係になっているところが気になる。(敬意を払う対象にはお金を払わず、お金をたくさん払う対象には敬意を抱かない。常に片方だけという関係をトレードオフという)


これは、日本(もしかしたら東アジア圏)独特なのだろうか?

いや、西洋でも、教員の給料はそんなに高くない気がする。


でも、優秀な人を教員にして、教育に予算をかけ、教師に高い給与を払い、人々が教師を敬う国は発展し、その逆の国(我が国)は衰退している。




そもそも、高いモラルを持ち、知的で教養があり、数か国語を話せ、社会経験も豊富、人格者で見た目も素敵な教師がいるとしたら、それは、それだけお金と手間暇をかけて、そういう教員を養成しているからだ。


そういう賢い人が聖職者という呼び名につられて、教師になっていっているわけではない。


絶対に報われない、聖職者という美名だけで、本当の意味で尊敬されていない教師という職業に就くはずがない。



なぜ、「本当の意味で尊敬されていない」かというと、私たちが、単にお金をたくさん稼いでいるだけの人を、別に世話になったわけでもいのに、どこか敬う風潮があるからだ。その人の専門分野でもないほかの分野でも一流の見解を持っているかのように扱い、コメントを求めたりするからだ。


お金持ちを敬うのは、何らかの結果を出した(結果にコミットだ)ことが、その人の能力や知性、人格を保証してくれているように見えるからだ。


逆に、貧しい人を見たときは、その人の日頃の行いが悪いんだろうと、そういう見方をする。清貧という言葉があるけれど、その言葉は、人間のそういった修正から、あり得ない。




どんな人でも、努力は正当に評価されたいし、報われたいとも思っている。仕事をさせるのに、報酬を払わないというのは、相手をバカにしているのと同じことだ。




私は、頑張った分だけ評価されたい、報われたいから、鍼灸師になったのかもしれない。


報酬を求める分、仕事に打ち込み、患者さんが治るなら、それは素晴らしい「結果にコミット」だ。


人は、大した結果を期待しないときは、500円の治療院へ行き、素晴らしい結果を求めるからこそ、高い治療院へ行くのだから。


問題は、「高い治療院が素晴らしい結果を出しているか」だが、この問題は、そのうち時代が解決してくれそうだ。


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