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  • 山崎 美穂

鍼灸院は、自分に出会う場

最近、『ここは今から倫理です』という漫画をよく読んでいます。


私たちが普段なんとなく使っている、「人格」という言葉があります。


この人格という言葉が、なかなか「揺れる」言葉だということをご存じでしょうか?


人格と、人という言葉とありますが、どう違うんでしょう?


たとえば、私たちに人格があろうがなかろうが、人である限り、基本的人権の保障の対象であり、尊重される存在であると、憲法は規定しています。




憲法というのは、「教育の義務」とか「納税の義務」とか、私たちの義務について書かれている嫌な法律だというイメージを持っておられる方も多いかもしれませんが、


私たちの権利の根拠、相手が誰であろうが、嫌なものは嫌という権利は、この法律だけが保証してくれます。


憲法がグラつけば、弱い一本の葦に過ぎない私たちなんか、強者の足元に踏みにじられて、一瞬で終わります。


権力者が憲法を触りたがるとしたら、強者である彼らの狙いは、弱者をさらにいたぶることでしかありませんから、用心深くなってくださいね。


諸外国との関係に、憲法は全く関係ありませんので、ダマされないように。


余談ですが。




憲法が基本的人権というものを尊重しろと言ってくれている、そのおかげで、人格というのが、なかったら、人権がないなんてことはないわけです。


人格があっても、なくても、人であるなら、人権はある。


何らかの障害によって、人格が失われたとしても、私たちは人として、命や財産を奪われない、侮辱されない権利があるわけです。


では、改めて、人格とは何でしょう?




多重人格の場合の人格とは?


認知症で理非分別を失ったとして、人格とは?


赤ん坊の時期の人格とは?




赤ちゃんの時の私たちは、理性や知性、良心と言ったものの、「種」を持っていますが、それが芽吹いていない状態だと言えます。


逆に病気や事故などで、そういったものを失った状態は、植物が枯れた状態にたとえられるかもしれません。




人格という植物が青々と美しく茂っている状態。種で眠っている状態。枯れて失われつつある状態。


その植物は目に見えず、触ることもできない。


なぜなら私たちの内側にしか育たないから。




自分自身のそれであっても、私たちは目で見て、手で触れて、確認することはできない。


なのに、自分のうちにそれがあることは知っているし、人を見れば、その人にもそれがあることが分かる。


人の言葉に、態度に、現れるものを通じて、その存在を確認するのです。




ところで、あなた、とは、あなたの身体でしょうか?それとも心でしょうか?


どちらかと言えば、心だよな…と思っていると思います。


実際そうで、私たちには、自分の背中が見えません。




私が、私である、と認識できるのは、私の目が見る範囲内のものです。間違いなく自分の一部である背中について、痛みや、しんどさを通じてしか、存在を感じられないのです。


鍼灸治療院では、服を脱いでいただきます。(全裸ではありませんよ)




私たちは、案外自分の身体のことを知りません。むしろ、他人の背中は見たことがあるのに、自分のそれは一生「生」では見られないのです。


自分の心だって100%知り尽くしているわけではない。


いわんや身体をや。




全身に非常に細かく、密に鍼をしていくという当院の治療では、皮膚の下に隠れた、様々な傷を発見します。




鍼灸院は、自分の身体という他者と向かい合う場。


自分の身体について知る場。


そう言えるのです。

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