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  • 山崎 美穂

頑張っても、どうにもならない大きな運命に押し流されるような気がして。

人が健康について考えるときって、「人知を超えた大きな運命の歯車」を忘れてはならないと思うんです。


というのは、実際そのようなものがあるかどうかではなく、私たちは心のどこかで、そういう風に物事を「運命によって運ばれている」と感じている、むしろ信仰に近い形で、深く魂まで染み込む形で持っているような気がするんです。


のっけから、しいたけ.占いのしいたけ.さんみたいな書き出しですが。


あるか、ないか、ではなく、私たちは、そういうものが「ある」と信じて生きているということを言っています。


なぜなら、私たちは、精子卵子が、何万、何億分の一という、わけのわかんない確率の、偶然によってこの世界に生命を得たことを知っているからです。


だから、多かれ少なかれ、濃度の濃い薄いはあれ、私たちは、みんな、運命論者です。


「こういうとき、私は必ず失敗する運命にある」

「敗北者の定めなんだ」




そして、それが顔を出しがちなタイミングというのがあります。


たとえば受験。


たとえば恋愛。


たとえば就職。


「こんな会社に」「こんな業界に」「こんな高校に」入ってしまったのが運のつき…だとか。「こんな人としか」「なんでこんな奴と」と、にっちもさっちもいかない関係になった後にとか。



察しの良い人は、これが「正当化」の一種で、運命という、人語をしゃべらない、反論してこない奴のせいにして、自分のせいじゃないと考えるためにやってんだろうと気づくわけです。


ところが、他人事とか、今みたいに一般化した書き方で表現しているときは、そういう風に突き放して考えられるんですが、こと自分自身に何事かふりかかったときは、誰も、運命論者になることを避けられなくなるんですね。




そして、都合よく、便利な「正当化マシーン」である【運命論】を、人生で頻繁に使ってしまった人は、この便利なカードをことあるごとに使うようになってしまうんです。




まったく他人事じゃなくて、私も過去こんなことを言ってました。


10円ガムについていた当たりくじを見ては、「あーあ、つまんないことに運を使っちゃったな」とかね。


「こういうしょうもないくじには当たるのに、大きいやつは絶対当たらないんだ。私の場合」とかね。


さらには、「受験系には強いけど、面接になると絶対落ちる」とか。



自分で自分が勝手に作った運命論を、自分で強化するようにすら、なっていたんです。



このブログは、鍼灸師として、私が感じていること、つまり健康について書くことがテーマですので、本題である健康と運命論に話を絞りますが、



健康についてね、私も人生の最初っから、鍼灸師だったわけではないし、鍼灸師になりたてだったころより、幾分経験を積んできたから言えるんですけど、



鍼灸師になる前、私は、健康の分野でいっぱいそういう運命論持ってたけど、


知識と技術が増えるにつれて、健康について、私らができることって、頭の中でイメージしてたより、ずっといっぱいあった。


そして、そういうのがいっぱいあることに気が付いたら、運命論的なところ、減って来たよってこと。




つまり、運命論って、


努力しても、どうにも出来ねぇよおおおおおお!!!


ってこと「限定」でしか、効果発揮しない。




努力しても、赤信号に車が突っ込んできて跳ねられる…とか、どうしようもない。


生まれるために、他の1億匹くらいいる精子の中で一番を取る…とか、努力した記憶すらないし。




こないだ、自分がやれると分かっていることをやるのに、勇気はいらないってフェイスブックに書いたんだけど、


自分が、息吸って吐くように簡単にできることについて、いちいち運命論はしゃしゃり出てこないじゃん?


自分ができないと思ってること、過去失敗した経験をひきずってること、そういうことにだけ、運命論が出てきて、「ほら、失敗するのよ」と囁いてくる。




この言葉、『自分がやれると分かっていることをやるのに、勇気はいらない』というのは、本田健さんがバシャールという人(宇宙人?)との対談をしている本に出てきた言葉なんだけど、


この本には、こういうことも書いてある。(おおよそ)





皆、なにかに気が付いたときスタートだと思ってる。


気付いたから、その気付きに従って、行動を起こし、それからうんぬんかんぬんがあって、完結する。。。というスタートだと。


でも、違うよ。


気付いた時が、完了したときなんだよ。


なんで?って思うだろ。


「木を見て森を見ず」って言葉があるじゃん?


あれって、木ばっかり見ていて、自分が森の中にいることに気づかないってことだけど、自分が「木を見て、森にいること気が付いてなかったな」と気づいたときって、すでに、「外側から」つまり森の外を頭の中でイメージしてるじゃん?


頭の中には森の外から森を見ていて、森の中に自分がいて、森の木の一本を見ている…って状態までメタ認知できてるじゃん?森の中に居ながらにして。


気付いちゃったら、もう森に気が付かない振りできないでしょ。


だから、気付いたら、もうそれは完結なんだよ。




ようは、(1)行動 → (2)気づき これで全部。


世間は、逆で、(1)気づき → (2)行動 だって誤解してるんだって話。




気付いたとき、(1)行動からはじまった「学習過程」は完了するんだよ。


学び終わったら終わり。次行って良し。




目からうろこではないですか?


私はそうでした。




運命の輪ってないんですよ。


あるのは、学習過程だけ。


ある経験から学ぶべき「気づき」を得られていないから、同じような経験を繰り返すだけ。


運命論だと思っていたのは、学習しそびれてるってことだけなんですよ。




自転車に乗れない→乗れるようになった


これ、それ以上のストーリーいります? てか、ありますか?


そりゃ、こっからプロの競輪選手になるストーリーが始まる人も、たまにはいますけど、ほとんどの人は、自転車に乗れるようになったら、息するように自然に自転車に乗れて、それ以上自転車について考えないでしょう?


それで当たり前なんです。




気付いたということは、学習の完了。



私たちは、なにかを学ぶために、病気や痛みを経験している。ただそれだけなのかもしれません。




すべての病気が、「治せるよ」、「克服できるよ」と言ってるわけではありません。


そうではなく、この病から何かを学び取れという、挑戦を受けているんだと解釈すべきだってことです。


病気を、ただ病気、悩みで終わらせるんじゃなく、転んでもただでは起きないぞ!という精神で、病気から何か気づきを得ろと、宇宙は言ってるんだぞってことです。


って、宇宙ってなんやねんと、書いてて自分でも思うわけですが。





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