「病」の気
- やまさき みほ
- 2025年12月8日
- 読了時間: 3分
病気のしんどさや重さは、病人本人にしか分からない──そう思われがちだけれど、実はそうとも限らない。
案外、医療の素人であっても、人は本能的に「これは相当きつい」ということを感じ取ってしまうものだ。

最近、こんなことがあった。
ある朝、目が覚めた瞬間から肩がたまらなく痛い。
我慢できず、配偶者に「3分でいいから、肩もんで」と頼んだ。
一回目はもんでくれた。
ほんのしばらくは、楽になった。
けれど午後になっても、痛みは耐えがたいままだ。
もう一度お願いして、再び肩をもんでもらった。
……ところが今回は、3分ももたなかった。
たった1分で、手が止まった。
大の男の人である。
体力的に、3分肩をもむのがしんどかったわけではない。
肩に触れた瞬間、「これは無理だ」と身体が判断してしまったのだ。
私の感覚で言えば、病の「気」が強すぎた、という状態。
言葉を選べば、強い炎症や異常な緊張、張りつめた違和感が、触れる側にもはっきり伝わってくる状態だった。
これは、プロである私にも起こりうることだ。
エステティシャンや美容師など、仕事で人の身体に触れる人たちも、同じ感覚を覚えることがあると聞いている。
直接でも、間接でも、人の身体に触れれば、かならず影響は受ける。
(もちろん、私自身が患者さんに負担をかけてしまっている瞬間もきっとあると思っている)
あまりに強いものを受ければ、プロであっても、一発で消耗する。
──いまだに、稀だけれど起こることだ。
神社へ行ったり、焼き塩で結界を張ったり、ホワイトセージを焚いたり、いろいろ対策はしている。
それでも、食らうときは食らう。
家族であっても、病の状態が強すぎれば、肩ひとつ、もんでやることすらできなくなる。
病というのは、好意や根性だけで扱えるものじゃない。
私ごとながら、実家の母から体調不良で頼られたことがある。
福岡から出てきて、わざわざホテルをとり、数日連続で治療を受けに来た。
ちょうど新型コロナが猛威をふるっていた時期だったが、コロナにかかっていたわけではなかった。
検査をしても、はっきりした原因は出ない。
ただ母は、「このしんどさは、放っておいたらまずい気がした」と後に話していた。
あのときは、症状としては、まだ“決定的なもの”は何もなかった。
ただ、身体の奥に違和感だけがあった。
そして数年後、母は乳がんと診断された。
それも、初期も初期の段階だった。
念のため切除はしたけれど、抗がん剤も、放射線治療もせずに済んでいる。
私と母は、「あのときの判断があったからだ」と思っている。
人間にだって、野生の本能はある。
それは特別な能力ではなく、「これは放っておくと危ない」と知らせてくれる生存のための判断スイッチみたいなものだ。
ただ問題は、そのサインを本人が受け取ろうとするかどうか。
母のように、感じた違和感を信じて動ける人もいれば、「我慢は美徳」「まだ大丈夫」と耐え続ける人もいる。
本人が、自分の抱えている病の重さや大きさを見誤り、「まあ平気だろう」「もう少し様子を見よう」
そんな先送りを重ねているうちに、病は簡単に、こじれていく。
野生の勘が、「何かおかしい」と知らせてきたなら、立ち止まらなくていい。
それが自分の身体からのサインなら、迷わず、人の手を借りていい。
治療に進んでいい。



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